ZT ジョブズ半生記


【ジョブズ半生記 Vol.2】悪ダチとつるみ、インドで荒修行を経て、偉大なるアップル創業までの知られざる至極のエピソード


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かなり破天荒な若者だったんですね!

突如として再び病気療養のためにアップルを離れることを明らかにした、われらが愛するアップルのスティーブ・ジョブズCEOですけど、いろいろ心配はあるかもしれませんが、そんなことは大ジョブズ(失礼しやした...)ってことで、まずは偉大なるジョブズの半世紀を振り返ろうじゃないかという米GIZMODO編集チームの特別大長編企画の第2部でございますよ。ジョブズの出生の秘密と幼年時代のエピソードは、こちらの第1部をご覧くださいませ。

いまではすっかり尊敬のまなざしで見つめられるスティーブ・ジョブズも、なかなか凄まじい十代と二十代の青春の日々を駆け抜けてきたのをご存知でしたでしょうか? なんだかちょっぴり勇気も湧いてきそうなジョブズがアップルを創業するまでの知られざる至極のエピソードを、どうぞ一緒に感動の涙など流しながら振り返ってみることにいたしましょう。1日でも早く元気に完全復活したジョブズのプレゼン姿を再び見られるようにと祈りつつ...




1970~1971年(其の一)

ティーンエイジャーに突入したジョブズ君、もうすっかりグレまくりの青春時代を送ります。酒とロックとマリファナに溺れる日々...

すみません。ウソです。いくらなんでも、いきなりそこまで壊れてはいませんでした。上の画像も米GIZMODO編集チームによる悪いアメリカンジョークでございます。





1970~1971年(其の二)

気を取り直しまして、われらがジョブズの少年時代を振り返ってみることにいたしましょう。そう、決して忘れてはならない、あの後に一緒にアップルを創業するスティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズ、2人の偉大なるスティーブの運命的な出会いがあったのは、この学生時代のことだったんですよね!

どうやら最初の出会いは、ジョブズの親友が「あのさ、とってもいい奴がいるんだよ」って紹介して引き合わせてくれたことに始まるみたいです。でも、もう出会った瞬間から、まるで幼い頃からの親しい友人のごとく、一気に何をするにも意気投合する強力な絆で結ばれちゃったそうですよ。ボブ・ディラン、ビートルズ、そしていわゆるガジェットの電子機器という共通の趣味が見事にマッチした2人は、この年頃の少年たちらしく、かなりヤバいイタズラにも興じていました。まぁ、それなりに不良だったってことでしょうかね...

そんな若かりし出会った頃の2人ですが、すでに互いに心から尊敬し合えるものがあったみたいですよ。
ボクは電子機器をいじりまくるのが大好きで、その知識はだれにも負けないものを持っているって自負していたんですけど、ウォズは初めて自分よりも詳しい物知りでしたね。彼のエレクトロニクスについての知識は尋常じゃなかったですから...

ウォズとの出会いを振り返りながら、こんなふうにジョブズは評していますよ。
ボクはそんなに人付き合いが上手ではないんだけど、その点、ジョブズはスゴいよね。仲間を信頼するとか、相手の奥の奥を見抜く能力に長けているっていうのかな、そんな不思議な魅力を持っているんだよ。

一方、ウォズはジョブズを、最初に出会った時からこう語っては一目置いてたんだとか。う~ん、なんとも言えないオーラを放ってアップルの快進撃を率いてきたジョブズのマジックとも呼ぶべき人柄の片鱗が、すでにこの時から顕著だったことがうかがい知れる貴重なエピソードでもありますよね!





1970~1971年(其の三)

ちなみにやっぱりウォズとジョブズは、かなりの悪ダチだったことを示すエピソードもご紹介しておきましょう。男性誌の「Esquire」で公衆電話のイタズラ記事を読んだ2人は、なんとその天才的にマニアックな知識を駆使して、勝手に公衆電話につないでコードをクラックし、無料で長距離通話だってかけまくれるというヤバすぎるキット「Blue Box」なる代物を完成させちゃいましたよ。

ただ、自分たちで作り上げて悪用するにとどまらず、ここにも後のジョブズのアップルでの成功を垣間見させる展開といたしまして、まだ高校生だったにもかかわらず、いきなりキャンパスの片隅に出かけては怪しげなブースを設け、学生たちを相手にヤバヤバな違法キットのBlue Boxを売りさばき始めます! ちなみに販売価格は当時の150ドルと、決して安い値段ではありませんでしたよ。1台のBlue Boxを組み上げるために要したパーツ代などの原価コストは40ドルだったそうで、これはもううまくいけば荒稼ぎですよね~

幸か不幸か、ある時、ウォズとジョブズは乗っていた自動車が故障してしまって、もうウンともスンとも言わず、道路の脇で立ち往生してしまいました。そして、このBlue Boxで目論んだイタズラ商売にも終止符が打たれることになりますよ。というのも、例によって無料通話をかけて救援を仰ごうと公衆電話に駆け寄ってBlue Boxをつなぎおおせたところで、なななんと真横にパトカーがやって来ちゃったんですよね。
警察:これは君たちの車かい?


ジョブズ:あっ、はい、そうなんです。突然故障して動かなくなってしまいまして...

警察:で、いまは何をしているところだね?

ウォズ:あっ、はい、困ってしまったので電話を...(慌てたジョブズに口を押さえられる)

ジョブズ:あっ、いえ、その、ちょっと気分を盛り上げるために音楽でもと思いましてですねぇ。

一体こいつらは公衆電話に群がって何をしているんだと不審に思って近づいてきた警察官にBlue Boxを見咎められて危機一髪の2人でしたが、そこはジョブズが機転を利かせて、これは別に怪しい機械でもなんでもなくて、音楽プレイヤーみたいなものだって言ってのけては、なんとかその場をしのいだんだそうです。う~ん、なかなかこの2人は十代の頃から凄まじいコンビを組んでいたってことですなぁ。





1972年

高校を卒業したジョブズは、晴れてオレゴン州のリード大学へと進学し、花のカレッジライフをスタートするのですが、このキャンパス生活はそんなに長くは続きませんでしたよ。わずか1学期で単位を落としまくって、いわゆる留年状態になってしまったのです...

そもそも最初からジョブズは大学に進学することに興味などまったくなかったのですが、自分の生みの親があまりにも熱心に勧めるため、仕方なく進学を決意したそうですね。ただ、どうやら大学側がジョブズの偉大な才能という殻を受け入れるには小さすぎたのかもしれません。

ところで、この頃、ウォズとジョブズは一緒に生活費を稼ぐため、なんとショッピングモールの中で不思議の国のアリスの衣装をかぶっては時給3ドルでアルバイトに励んでいたなんてトンでも情報がありますよ。もしやジョブズの魅せるドラマティックな演出は、こうやって着ぐるみの中で体得したんでしょうかね?





1973年

ちなみに単位を落としてしまって進級できなかったジョブズですが、1年半ほどはキャンパスに出入りしつつ、とりわけカリグラフィーのクラスに熱心に出席しては書道とタイポグラフィーへの理解を深めたと伝えられていますよ。そして、知る人ぞ知る、これこそがあの美しいMacのフォントデザインに後に活かされることになっていくんですよね!





1974年

さて、すっかりカレッジライフには見切りをつけたジョブズは、カリフォルニアへと舞い戻って、これまた突然のこととして、ゲーム業界の雄であったAtariへの就職を願い出ますよ。逸話では、まともに事前のアポイントなんてあったもんじゃなく、いきなりAtariの本社にフラッと現われたかと思うと、開口一番に「俺には才能がある。だから雇ってくれ。首を縦に振ってくれるまでは帰らない」とその場に居座り、速攻で採用内定をゲットしただなんて伝えられていますね。結構もうこの若い頃からワンマンなタイプだったのかも~

ただ、就職後には知人のダンさんと連れ立って、何を思い立ったのか、スピリチュアルな旅に出たいと語りつつ、インドを目指してしまいましたよ。ある山の上で修行僧のグルに気に入られたジョブズは、ついに頭を丸めて坊主になり、これまた一緒にインドに旅した知人のダンさんも坊主頭になってしまいますよ。まぁ、ダンさんが髪の毛を剃り落とした本当の理由は、ノミでいっぱいの不潔さに耐え切れなくなったからなんだそうですけどね。

このインド放浪の旅は人生観をさらに大きく変えるものとなり、荒修行の最中にはLSDなどの麻薬にも手を出すほどの厳しい経験だったとジョブズ自身が告白しているみたいです。いやいや、このままインドで一生を終えることになっていたとしても不思議ではなかったのかもしれませんよね...

ただ、数か月に及んだ修行生活の途中で、これまたいきなり思い立ったジョブズはカリフォルニアへと帰国し、Atariに坊主頭で出勤してきては皆を驚かせていますよ。ところで、余談ですけど、ジョブズに付き合わされてインドまで連れて来られた知人のダンさんは、なんとインドを去ったジョブズに置いてけぼりを食らい、その後は独りでインドを放浪してさまよい続けたんたとか。なんだか俺流ジョブズもゴーイングマイウェイにやってくれますよね!

再びAtariに戻ってきたジョブズは、後に「Break-Out」というブロック崩しゲーム機として知られることになる特別な開発プロジェクトに着手するようにとの辞令を受けます。「このゲームマシンが、もしも40個未満のチップで完成したら、君には特別な報酬をやるよ」と約束されたジョブズは、親友のウォズに頼み込んで超コンパクト設計に仕上げてもらいましたよ。社会人になっても、なかなか2人の絆は強かったみたいですね。

ただし、人のいいウォズとは対照的に、かなりジョブズにはずる賢い一面もあるみたいで、この時に特別なプロジェクトの成功報酬としてAtariから受け取ったボーナスを、手伝ってくれたウォズと半々で山分けしたかのように見せかけつつ、実はウォズには一部しか与えず、大半をジョブズがポッケにないないしちゃっていたなんてことも明かされていますよ。う~ん、でもちょっとこれには感心できませんかね...

後に10年が経過してから事実を知ることになったウォズのショックといえば、それはまた親友に裏切られたことを知って、その時の悲しみと衝撃は尋常ではなかったとの話もあるようですよ。きっともしウォズが、こんなジョブズの仕打ちをもっと早くに知り得ていれば、一緒に仲良くアップルを創業するなんてこともなかったのかもしれませんよね。まぁ、ただし、この件に関しては、いまだにジョブズは、そのようなことをした覚えはないって絶対に認めてないみたいですけどね~





1975年

いよいよ偉大なるアップルの歴史の幕開けが近づいてきましたよ。この頃、ウォズは簡単な回路基盤でテレビに出力するコンピューターの製作に成功し、Homebrew Computer Clubでデモンストレーションを実施しています。当時、まだジョブズはAtariでの勤務を続けており、一方のウォズはHewlett-Packard(HP)に勤務していましたよ。





1976年(其の一)

じゃじゃ~ん、ついにここに記念すべきアップルの誕生です! この年の4月1日に共同出資して正式に創業されましたよ。もっとも設立資金といたしましては、ウォズが所有していたHPの電卓コンピューターを一挙に65台の大人売りで520ドル、ジョブズが愛車に所有していたレッドとホワイトのツートンカラーのフォルクスワーゲン製のバスを1500ドル(実際には売り渡した瞬間にエンジンが火を噴いたので半額しかもらえなかったらしい...もしや不良品を売りつけたの?)で売り払って出し合ってスタートした、いまとなっては非常に小さな小さな始まりでしかありませんでしたけどね。

アップルが最初に売り出したのは、先日も超貴重なオークション販売が実施されたばかりの「Apple I」コンピューターでした。パーソナルコンピューターの輝かしい誕生ですね。当初の注文は50台でしたが、この年が終わるまでには150台が出荷されたと伝えられています。すべてジョブズの直筆サイン入りで、ジョブズ自らがセールスマンとして必死に売り歩いたというエピソードまで残されているみたいですね...





1976年(其の二)

一方、早くも次世代モデルの「Apple II」の開発にも着手したウォズとジョブズは、この新モデルは回路基盤からダイレクトにOSをロードし、まさにまたイチから大幅な設計変更を加えたモデルチェンジを実施することで意見の一致を見ました。そして、この頃に最初の出資者として、インテルの社員だったマイク・マークラさんからの資金援助を取り付けることに成功しましたよ。Apple Iの素晴らしい売れ行きとApple IIの将来性を固く信じたマークラさんは、この時すでに「絶対に5年以内にFortune 500のトップ企業に名を連ねる会社へとアップルを育ててみせたい」との大きな夢を語っています。その先見の明も見事な称賛に値しますよね!





1977年

年が変わって、1977年の1月3日にマークラさんの自宅に集まった3人は、アップル創業から1年を待たずして「Apple Computer」の法人化を実施する書類にサインし、ウォズ、ジョブズ、マークラさんの3人で株式を持ち合うことになりましたよ。

順風満帆のスタートを切ってきたアップルですけど、この年にジョブズにとっては早くも暗雲が垂れ込める変化も生じ始めています。それはNational Semiconductorからの引き抜きでアップルの社長に抜擢されたマイク・スコットさんの登場ですね。社長への就任直後から、ジョブズとスコット社長との折り合いの悪さは明らかになり始めますよ。

たとえば、スコット社長の人事プランですと、ナンバーワンの社員はウォズであり、あくまでもジョブズはナンバーツーに過ぎないと明確に示されてしまいました。でも、このランク付けにはジョブズは非常なる不快感を覚えたそうですね。おまけに長髪ルックの風貌がボサボサでガサツと冴えなかったジョブズに対して、なにかとスコット社長は外見上の嫌味を言い始めるんですよね~

少しずつ雲行きが怪しくなってしまっていましたが、この頃にジョブズはアップルのロゴマークの確立に腐心しています。いまとなっては懐かしいリンゴのロゴにレインボーカラーというアップルデザインですけど、小さくても一瞬で見分けがつき、なおかつたくさんのカラーを用いるロゴマークなので真似されにくいというメリットが重視されたそうですよ。

この年の4月にアメリカ西海岸で開催された「West Coast Computer Faire」におきまして、新作のApple IIは最優秀デザインのパーソナルコンピューターとして高評価を集めます。わずか62個のチップしか用いない最小構成デザインが、ジョブズのアイディアで配置にも美しさを追求し、すべてのネジが底部に埋め込まれて外からは見えない仕上がりが注目されたみたいですよ。拡張スロットまで標準装備されていましたからね。

この頃、ジョブズの人生面で大きな変化も生じています。それは付き合っていたガールフレンドのクリス・アンさんが妊娠したんですよね。ただ、ジョブズは父親として認知されるのを拒否し、一方のクリス・アンさんは絶対にこの子を堕ろすようなことはしないと主張して激しく言い争ったため、2人は別れることになってしまいました...





1978年

ジョブズはあくまでも父親にはならないと言い張ったそうですが、この年の5月17日にオレゴン州で娘のリサさんが誕生していますよ。依然として実子としての認知は頑なに拒んだジョブズでしたが、名前はジョブズがつけて、しかもApple IIの次なる新世代モデルの開発プロジェクトも「Lisa」と命名されます。同時に現在でもアップル本社があるカリフォルニア州クパチーノに会社を移転していますよ。

この年の社内ハロウィーン仮想パーティーではイエス・キリストに扮したというジョブズ。さらなるアップルの飛躍を担う「Apple III」の誕生を夢見ながら年を越していきますが、もしかするとこの時からすでにジョブズの受難の半生が始まっていたのかもしれません。いざ、ジョブズ半生記の特別編は第3部へと続いていきます。どうぞ乞うご期待!


Brian Lam(米版/湯木進悟)

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